川底の森

日々の独りごとです

相貌失認であるとは、どういうことか

例えばあなたの目の前に、つい先日迷惑をかけてしまった方が歩いてきました。

 

その相手は、あなたが心底謝りたい相手です。申し訳ないことをしたと思っている相手です。

 

相手は「あ、あいつがいる!」という雰囲気でにらんできています。「謝るんだよね?」と言いたげです。

 

その時、あなたが相貌失認だったらどうなるでしょうか。

 

目の前の人物は、明らかに自分をターゲットにして睨んできています。

でも相貌失認のあなたにとって、目の前の人は知らない相手です。

その、誰だかわからない相手が口をへの字に結んでこちらを見据えています。

 

「怖い!」と思いませんか?

避けませんか?

 

「なにこの人怖い…」

目を合わせないようにして怖がり、避けようとするあなたに、相手はどう思うでしょうか。

 

「自分のしたことを棚に上げて」と、怒り狂うかもしれません。

怒鳴りつけるかもしれません。

粗暴な人だったら、手が出るかもしれません。

あきれながら、苦言を呈するかもしれませんし、善意からの説教を始めるかもしれません。

 

でもあなたは、恐怖で頭が働きません…

 

相貌失認の人が社会に出たときに起こることのひとつです。

 

この時、自分の評価を落とすことより深刻なのは、相手に不快な感情を与えてしまうことです。
相手の方は、当然その感情を処理しなければなりません。何も落ち度がないにもかかわらず、です。

 

その方個人のメンタルに影響を与えるだけでも心苦しいのですが、周囲を巻き込んだ大騒動になることも多々あります。

常識や礼儀、はては「人間らしい感情」を持たない人間がいたと周囲に知らしめられてしまうのですから。

集団で生きる人間は、理解不可能な人がいると恐怖を感じるのです。
排斥に動くことは想像に難くなく、しかもある意味、理にかなった行動とも言えます。

 

そうやって私が石を投げられるのは仕方のないことだと思っています。是非はともかく、そういう社会で生きているのですから。

 

しかし、家族、特にわが子の人間関係を、私は相貌失認であるがために破壊してきました。子どもの人生が大きく狂いました。

相貌失認であるだけでなく、自閉スペクトラム症ASD)系の神経発達症(発達障害)もある私にとって、一度こじれた対人関係を修復するすべはありませんでした。

 

そしてこれからも、こういうことがまた起こるかもしれないという恐怖に震えながら、わが身を奮い立たせて社会人を続けています。

親も、続けています。

 

支援者の方へも迷惑をかけ続けています。

「ありがとうございます」と深々と頭を下げる一方で、挨拶もせずに素通りしてしまうことも日常的に起こり得ます。

 

誰だって不快になります。それに、
「支援者だって、人間」ですから。

わかっています。不快な感情を押し付けて申し訳ないと思っています。

 

心が苦しいです。

私が社会に出ること、チャレンジは、是、なのでしょうか。